第四章
「鏡兄ちゃんと話をしたのは夢だったのかなぁ」
天猫は、扉から出ると溜息を吐くような声で鳴いた。
「天猫、待ってくれ、全て、聞こえていた。故意に無視していたので無いぞ」
「そうよ、天ちゃん。聞こえていたわ。でも、話す事が出来なかったの。ねえ許して、お願いだから帰ってきて、昔のように楽しい話をしましょう」
沙耶加と海の意識は守護霊に変わっていた。海は、先ほどまで会話が聞こえ、ぴくぴくと体が反応していたが、室内が無言になり思考しなくなった。何故、沙耶子も、そう思うだろう。先ほどまでペンを動かし、海を動かす為の行動計画書を作成していた。それは、まるで、パソコンの計算式の指示書のような猫の捜索計画書だった。その思案から妄想に変わってしまったからだ。
「鏡兄ちゃん、静お姉ちゃん、天猫だよ。天の姿が見えていたの。ねえ、聞こえるの?」
「聞こえるぞ。今どこだ、早く部屋に来い」
「聞こえるわ。早く部屋に戻ってきて」
「うん、そうする」
千年も二人に会っていないのだ。嬉しくて声も出ないのだろう。嗚咽のような鳴き声を漏らしながら部屋に中に戻ってきた。
「鏡兄ちゃん、静お姉ちゃん、戻ってきたよ」
天猫が室内に戻ってきたが、先ほどとまったく変わってなかった。数分だから当たり前だ。そう思うだろうが、そうではなかった。二人の男女が指一つも動いてないからだ。海は、ビデオの一時停止みたいに動かず、沙耶加も、妄想に夢中で心は体の中に無い状態だった。そして、二人の男女の体の周りには陽炎のような光の屈折が、それは、鏡と静のはずだ。そして、嬉しそうに天猫は見つめているのだろう。天猫しか分からないが、はっきりと、二人の姿が見えているに違いない。それは、天猫の嬉しそうな表情で感じられた。
「鏡お兄ちゃん、静お姉ちゃん、会いたかった。うっうう、会いたかったよ。うっうう」
「泣かないの。泣かないで、私も泣きたくなるでしょう」
「ここに来るのに時間が掛かったな、何か遭ったのか?」
「それは、鏡お兄ちゃんが、扉も窓も開けてくれなかったからでしょう。酷いよ」
「そうなの、私の事ではなかったのね」
「静お姉ちゃん、どういうことなの?」
「何でもないわ」
「ねえ、なに教えて」
「もう、天ちゃん。男には分からない、女性の悩みなの」
天猫は、これ以上聞かなかった。怒らせると恐い。それもあるが、目が笑っていると感じて、冗談と感じたからだ。
「天、済まなかった。だが、自分の体も無く、この状態では何も出来ないのだ」
「そうなのよ。天ちゃん。許してね」
「もういいよ。やっと会えたし、それより、これから、どうしたらいいの」
「頼みと言うのは、この男、海は、私の一族の者だ。ひょっとしたら最後の生き残りかもしれない。それでだ。海の助けになって欲しい」
「そうなんだぁ。いいよ。そうしたら、鏡お兄ちゃんの助けにもなるのでしょう」
「私の事は気にしなくていい。海のことを頼みたい」
「俺は、海なんて関係ない。鏡兄ちゃんと静お姉ちゃんの為に来た」
天猫は、怒りを表した。
「天、落ち着いて話を聞いてくれ、私は、海が生まれた時から一緒に過ごしてきた。産声も小さく、泣いて駄々をこねる事もやらない子だった。だが、物心がつく頃になってやっと普通でない事に気が付いたが遅かった。海は、自分で考えて行動することが出来ない。と、言うよりも何も興味を感じない子だった。それでも馬鹿ではないぞ。教える事や最低の教育などは一度で憶え、決して忘れない。そして、父親は息子の将来のことが心配になり遺言書という本まで作った。その本を記憶して、少しはまともになってくれたのに、父が亡くなったのが分かると、幼い頃と同じになってしまったのだ」
「そう、それが、鏡お兄ちゃんと静お姉ちゃんに、何か関係あるの」
「もう、今では自分の息子、いや、自分の身体みたいに思えるからだ」
「だって、他の空間、時の狭間って所に、二人の身体があるはずだよね」
「たぶん、あるだろう」
「それなら、探そうよ。子供の時と違うよ。守ってくれなくても、今なら何でも出来るよ」
「もし、私の身体を探すにしても、海をまともな人にするか、最低でも、行動が出来るようにしないと、何も出来ないぞ」
「わかった。身体を手に入れる為だね。なら、真剣に手助けするよ。ねえ、鏡お兄ちゃん。また、昔みたいに旅をしよう。今なら、二人を背に乗せて走れるよ」
「そうだろうなあ」
鏡は一瞬微笑んだ。天が大人になったと感じたのか、それとも、なにか思惑があっての微笑みだろうか、それは、鏡にしか分からない。でも、喜んでいる。それは確かだった。
「そうなの、私達を乗せるくらい大きくなったのね。乗ってみたいわね」
「いいよ。乗せてあげる。でも、落ちないようにしてよね。怪我をしたら困るから」
「天、私が、それ位の事で、怪我をすると思っているの」
「よかった。昔の通りの、天の知っている、静お姉ちゃんだ」
「そう、褒められたと思うわね。ありがとう」
「これから、何をしたらいい」
「そうだな、先に、沙耶加を正気に戻さないと駄目だ」
「そうねえ、早く、海を動かす為の行動計画書を作成してもらわないと駄目ね」
「どうしたらいい」
「騒いだり、ひっかいたりしたら目覚めるだろう」
「女性の身体に傷を付ける。そんな事冗談でも言う人だったなんて信じられないわ」
「なら、静お姉ちゃん。どうしたらいいかな」
「そうねえ。肩に上って耳元で鳴いてみたら、どうかな」
「鏡兄ちゃんの考えよりいいね。それ、やってみるよ」
即、机に跳び、そして、肩の上に跳び上がった。何度も耳元で鳴き声をあげているが、起きるようすがない。それでも、何やらぶつぶつと呟き始めた。天猫は、起きる前兆と思ったのだろう。声に驚き足を滑らせた。必死に落ちないように我慢したが、女性の象徴にしがみ付くと言うよりも乗っていた。
「いやぁ」
沙耶加は、顔を赤らめた。身体の感触から夢の内容が変わったのだろう。夢を見る事は出来ないが想像は出来る。恐らく、幼子の男女がブランコに乗っていたのが、突然、今の歳になり、公園の芝に押し倒された。そんな夢に変わったはずだ。
「やめてよ」
男性が、その人物は海だろう。その手が胸に触る。身体の感触は天猫の後ろ足の感覚だ。
「やめて、馬鹿」
猫と思ってない。好きな男性だが、心の底から恥ずかしくて平手で頬を殴っていた。それと同時に現実世界では大声を上げ、目を覚ました。
「あああ、私寝ていたのね。早く、行動計画書を作成しなくては駄目だわ」
「あら、猫ちゃん。机の上に上がっては駄目よ。大事な物なの」
天猫は、沙耶加が目覚めると机の上に飛び移っていた。
「にゃ」
「いい子ね」
そうっと、天猫を抱き床の上に下ろした。そして、もう、先ほどのような妄想でなく、歩数や町の方向などの数式の為だけに思考が働き、行動計画書を作成することに集中した。書き終えるのは数時間後、正午を知らせる時計の音が鳴るまで掛かった。
「天、出来上がったようだな。また、暫く話が出来なくなるが、後は頼んだぞ」
「にゃにゃん」
(大丈夫だよ。任せて)
天猫は鳴き声を上げた。その意味は、鏡だけが分かった。
「何を鳴いているの。お腹が空いたのね。今、作るから一緒に食べようね」
「にゃ」
「そう、嬉しいのね。でも、猫って何を食べるのかしら、ああ、それよりも、海に行動計画書を暗記して貰わなければならないわ」
沙耶加は楽しそうに猫と話をしていたが、突然に真剣な表情になると、書類と持ち、海に視線を向けた。顔を見ると微笑んだが、何も変わらない表情を見ると、悲しみと思える表情を浮かべた。そして、大きな溜息を吐くと机の上に書類を置いた。
「海さん、正午になりましたよ。直ぐ昼食は作りますが、出来上がるまでの間、この書類を見てください。初めての仕事ですから頑張って下さいね」
静の声を聞くと、耳だけをピクピクと動かしながら思案しているようだ。
「遺言状、第一巻第二章、言葉を掛けられた場合は」
「いいのよ。海さん、ただ、はい。でいいの」
「はい」
沙耶加は、海の言葉を遮った。そして、海は意味が分かってないような返事を返した。
「でもね。次のように言ってくれるなら食事の後でもいいわよ。
ゴホッン。沙耶加の料理を待ちながら資料を見る。それは、耐えられない。匂いや何の料理かと思うだけでも思考が出来ないのだからな。それほど沙耶加の料理は美味だ」
海の声色を真似て呟いた。
「はい、沙耶加の料理を待ちながら」
「もう、いいわ」
海の感情が感じられない言葉を聞き、涙を浮かべた。
「二通りの命令は、どちらを優先したら良いのか、良いのか、遺言書、ゆい、ごん、しょ」
「ごめんなさい。私が悪かったわ。資料を読んでいて、げっほ、ぐっふ」
沙耶加は、あまりの悲しみの為に嗚咽をもらした。それでも、海が料理を食べる時の美味しそうに食べる表情を見たい為に料理を作り始めた。だが、海は、その事にまったく気が付かずに、資料を記憶する事に集中していた。それほど、集中する程の事が書かれているのか、そう思うだろう。普通の人なら始めのページで嫌気を、いや、馬鹿にされたと感じて怒りを感じるはずだ。何故、そう思うだろう。それは、まるでパソコンの計算の指示書のようだったからだ。例えばだが、三歩だけ歩くだけでも、片足を上げる速度から角度、高さと指示書に書いてあるからだ。そして、二人と一匹は食事を食べ終え、ゆったりと紅茶を飲んでいる時だ。突然に、椅子を倒し、海が立ち上がった。
「如何したの、海さん」
「十三時です。行動しなければなりません。十三時です」
壊れた再生機のように何度も繰り返していた。
「海さん。まだ、いいのよ。そうねえ。全ての計算の指示書を三十分後に修正しなさい」
「はい、三十分後に行動します」
「はっああ、幼稚園の時なら面白い人って思ったけど、もう記憶は戻らないのかしらね」
二人の両親が知り合いで、幼い時から共に遊び、学んだ。静と一緒にいろいろな経験と遺言書で、普通の人と同じようになったのだが、最後の肉親、父が亡くなると、知り合った当時の状態に戻ってしまった。だが、海の父は、別に不審な亡くなりでは無い。過労と酒の飲みすぎからだった。それでも、家の中や病院で、息子や知人に看取られてでは無かった。浮気調査をしている時、医者に止められていたのに酒を飲んで発作が起こったのだ。
「海さん、行くわよ」
扉を開けたまま、手を振って本当に楽しそうだ。
「はい、分かりました」
「海さん、部屋から出るのは久しぶりでしょう」
「久しぶりとは何日間の事を言うのでしょうか?」
確かに、部屋から出なかった日時は、今日で三百八十一日です」
「おおお、日数を数えていたの。何も興味がないと思っていたわ」
沙耶加は驚きの声を上げた。
「止めてください」
突然に海が叫んだ。
「えっええ何を、如何したの」
「扉を閉めるのは、私の役目です。指示書に書いてありました」
「ああ、そうね。お願いするわ」
海は、子供が始めて部屋の鍵を貰った時のように、十分過ぎるくらい確認をし終わると、沙耶加のほうに振り向き、うなずいて確認の終わりを知らせた。
「終わったのね。なら行きましょう」
沙耶加は、海の確認の知らせを聞くまで、くすくす、と笑っていた。我慢して真顔にしたのは、海の気持ちを考えてだろう。でも、その感情が分かるのは、まだ無いはずだ。
「はい、捜索を開始します」
「猫ちゃん、家を探してあげるからおいで」
「ニャ」
「そう、嬉しいの、そうね。家に帰れるのだからねえ」
そう、つぶやくと猫を抱え歩き出した。そして、歩いているのか、止まっているのか分からない動きをしている海に声をかけた。
「待っていてくれたの」
「遺言状、第一巻第二章、言葉を掛けられた場合は返事をしなければならない」
「え、私、考えないと分からない事を言った?」
「私は、指示の通りに行動しています」
「あああ、そうなのね。海さん、指示書の全ての行動速度を三十五パーセント上げなさい」
「はい、分かりました。そう変更します」
沙耶加は、海が待っていてくれた。と喜んだが、その動きはナマケモノの動物と同じ動きだった。その事に恥ずかしいような怒りのような複雑な気持ちだった為に、つい、怒りを表し大声を上げたが、それでも、普通の人の歩き回る速度には足りなかった。
「海さん、指示書の全ての行動速度を、更に五十五パーセントまで上げなさい」
そして、海の確認の声が聞こえ、二人は並んで階段を上がった。
二階の一号室に着くと、沙耶加は、そのまま通り過ぎようとした。だが、海は扉を叩く仕草に気が付くと止めさせた。
「この部屋は空き家だから調べなくていいわ」
「はい、その指示に従います」
そして、海はまったく感情が感じられない言葉を返した。沙耶加は、その言葉を聞くと大きな溜息を吐きながら二号室に向かったが、恐らく、指示書に書いてなくても空き家なら、そのまま通り過ぎてくれる。それを期待したのだろう。
「二号室に行くわよ。今度はお願いね」
二人は扉の前に着き、トントンと、海は扉を二度叩いた。「は〜い」と女性の声が聞こえるが直ぐには出てこない。海は、その叩いた仕草のまま指示書に書いてあるように人が出てくるのを待っていた。
「海ちゃんね。久しぶり〜元気だった。如何したの、何があったの」
部屋の主は、驚きのような表情を浮かべた後、不安そうに尋ねた。
「はい、済みません。用件があって伺いしました。猫を飼っているか調べているのです」
「えっ、ペットを飼ってよかったのですか、確か飼っては駄目でしたよね」
「遺言状、第一巻第二章」
「ああ、その猫の飼い主を探しているのね。私の猫ではないわよ」
海を幼い時から知っているから驚きもせず、笑みを浮かべて答えてくれた。このように二人は三階まで有る。残りの九部屋を訪ねたが、飼い主が見つかるはずが無かった。
「仕方が無いわね。部屋に戻りましょう。猫ちゃんは、何時でも出られるように窓を開けておきましょう。そうすれば自分の家に帰ると思うわ」
「はい、指示に従います」
「仕方が無いわよ。落ち込まないで、捜索願の猫と一緒に探しましょう」
海は感情が無いのだから落ち込んでいたのではない。それでも、沙耶加は自分が落ち込んでいた為に、海も落ち込んでいる。そう、思ったからだった。
「ん、どうしたの。抱っこに飽きたの?」
天猫は、大人しく沙耶加に抱っこされていたが、全ての部屋の捜索が終わると、話も出来ないし、有るはずの無い。自分の家を探すって言う馬鹿ばかしい事に疲れたのだろう。さっさと階段を降りてしまった。
「うああっあああうわああ」
沙耶加は、天猫が階段を降りる姿を見ると声を上げてしまった。それもそうだろう。転がり落ちると思うぎりぎりの角度で降りて行くからだ。
「沙耶加さん、悲鳴を上げて、何が怖いのです」
海は頭で思考してから行動をするのだが、今は違った。悲鳴と感じて体が反応したのか、それとも、心の微かな隅にでも好意を感じている思いが残っていたのだろう。その理由は海の表情から判断が出来ない。だが、沙耶加は心配してくれた。行動指示に書いてない。人間らしい行動をしてくれた喜びで抱きついてしまった。
「ありがとう。ありがとう。正気に戻ってくれたのね。よかった。うっうう」
あまりの喜びで嗚咽を漏らしていた。
「遺言状、第一巻第三章、女性の涙を見た場合。話を聞き、そして助けなければならない」
「もう馬鹿、部屋に帰るわよ」
海よりも、その父に怒りを感じた。遺言書の中身は子供の作り方まで書いてあるのではないか、そして、その睦言の内容まで書いてあるに違いない。そう思ったからだ。
「はい、その指示に従います」
「今日は行動する予定はありません。休んで下さい。明日からの、猫の捜索計画書は、遅くても明日の昼までは作成しますから安心して下さい。
それから、海さん。明日から町内を捜索しますからいいですね」
「遺言状」
「はい、それだけでいいの。わかった」
「はい、その指示に従います」
海の返事を聞かずにさっさと階段を降りてしまった。そして、部屋に入ると無言で、部屋の片付けを始めた。普段なら、海を正気に戻す為に介護任とも思える。いや介護任と家政婦のような仕事をして帰るのだが、握り飯だけを机に置き帰ってしまった。余程、先ほどの言葉に怒りを感じたのだろう。女性の涙を見た時の対処方法まであれば怒りを感じても仕方がない。もし、あの言葉を聞か無かったとしても、本当に正気に戻った心の底からの喜びから、治ってなかった事の落差で悲しみなのか恥ずかしいのか自分でも分からなくなってしまい。そして、怒りに変わったはずだろう。